ジョーカーの報道規制について思うこと

こんにちは。この記事を書いているのはちょうど、ジョーカーが地上波で流れなくなるというニュースが流れてる頃です。少しだけ自分の考えを書いてみようと思います。

 

映画とか、あるいは本とか、マンガとか、アニメでもいいんですけど、そういう物語の力ってなんなんだろうと考えてみると、まず1個は、自己投影することかなって思うわけです。

エヴァンゲリオンのシンジくんが、他者を拒絶しまくる姿を見て、自分も思春期はこんな感じだったなあ、とか、帰ってきたヒトラーで、ナチスドイツに賛同してしまっていた当時の人々の気持ちがなんとなくわかってしまったりだとか。

 

今回取り上げたいのはむしろこれとは対照的なほう。自分が共感できないような立場の人々を少し理解できることというのもまた、物語の力だろうなと思うわけです。

JOKERもこのような色が強いと思います。普通に生きてたら、アーサーみたいな生活なんて全く理解できないけれど、映画を見ることで、少しだけ理解ができると思います。

現実の世界にアーサーはいないけれど、似たような境遇の人を街中で見たようなときに、その人のおかれた背景を少し想像し、少しだけ優しくなれるのではないでしょうか。

つまり、今までは全くの他人だった人々のことも考えて生活できるようになる、というのも物語の力、だと私は思っているわけです。

逆に、他人の生活を全く共感出来なかったら…?真っ先に思い浮かんだのは、アイヒマンでした。ハンナ・アーレントのやつですね。自分の昇進だけを考えて、他人のことを全く考えない人間ばかりだったから、ホロコーストなんてことを起こしてしまったわけですよね。

このことは官僚制とも結びついてきてしまうけど、紛らわしいから今回はなしで。

 

もちろん、物語の中の思想に毒され、今回のように事件を起こしてしまうこともあるとは思いますが、それは物語が悪いわけではない。その人の人格はもちろん、その人の周囲の環境などが事件の原因となったのだと思います。

今回の事件がどうかはわかりませんけど、周囲の環境がもっと良かったら、起きなかった事件もきっとあるはず。例えば、その人が不幸のどん底にいるときに救いの手を差し伸べてくれる人がいたりとか。じゃあどうやって、社会においてそのような人を増やしていけばいいのかというと、物語だと思うのです。

 

だから、今回のマスコミの報道規制は、逆効果なのではないかなあ。テレビの影響力は減りつつあるけれど、それでも上の年代を中心として影響力はある。メディアを駆使して、他人への共感力を高めることこそが、凶悪な事件を減らすことに繋がるのだと思います。

他人への共感力を高めることは、社会的にも有意義なことだと思うし、個人に還元していえば、日常が少し豊かになるかもしれません。すれ違った人の見た目から、その人が歩んできた人生を想像したり。

 

そんなわけで、物語の持つ力というのはとても大切だし、むやみに規制するべきではない、というのが私の意見でした。かなり口語体で書いてしまったので、読みづらかったかもしれませんでしたが、ここまで読んでくれた人へ感謝。読んでない人にも感謝。